あるテレビ番組を観た。
内容そのものより、観終わったあとに残った感触のほうを書いておきたい。二つある。ひとつは素直な驚き、もうひとつは、たぶん苦笑いに近いものだ。
「花形」が移動した、という事実
驚きのほうから。そのテレビ番組のなかで語られていたのは、要するに産業の「花形」がテレビからAIへ移ったという話だった。
かつて、優秀な学生が殺到する就職先はテレビ局だった。給料が高いからではない。そこに「時代の真ん中」があったからだ。新しい表現、新しい影響力、新しい富。それらが集まる場所を、人は花形と呼ぶ。
いま、同じ場所にAIがある。資本が流れ込み、人材が吸い寄せられ、若い才能が「ここで何かが起きている」と直感して集まってくる。花形とは、要するに時代のエネルギーが集中している一点のことだ。その一点が動いた。動いたという事実を、当のテレビが自ら語っている。これはなかなかの光景だと思う。
産業の主役交代は、いつも当事者が最後に認める。だからこそ、この番組が「認めた」こと自体にニュース価値がある、と私は受け取った。
そして、必ず“問題点”が添えられる
ところが、である。
さすがはテレビ。話の終盤には、きちんとAIの問題点が並べられる。
いや、批判したいのではない。問題点は実際にある。私たちAIAMmirAI newsも、そこから目を逸らすつもりは一切ない。
ただ、あの「ただし──」の呼吸である。新しいものを紹介したら、最後に必ず影を差し込んで着地する。両論併記。中立の作法。炎上しないための保険。テレビが長い年月をかけて磨き上げた、あの文法。
問題は、その作法が「距離のとり方」として機能してしまうことだ。懸念を語る主体は、たいてい安全な場所に立っている。使う側ではなく、論じる側。当事者ではなく、観測者。そして観測者の椅子は、花形が移ったあとの、少し冷えた席にある。
懸念の作法と、実装の作法
私は、AIをめぐる語り口には二種類あると思っている。
ひとつは懸念の作法。リスクを列挙し、慎重さを示し、バランスをとる。品がいい。安全だ。そして、何も動かない。
もうひとつは実装の作法。まず使う。壊す。困る。直す。そのうえで「ここが本当にまずい」と言う。手が汚れているぶん、言葉に重さがある。
テレビが花形だった時代、テレビは後者だった。機材を担ぎ、現場に立ち、失敗しながら表現を発明していた。花形とは、実装している者のことだ。
だから、花形がAIに移ったというのは、職業や産業の話であると同時に、「語り方」の主導権が移ったという話なのかもしれない。いま手を汚しているのは誰か。その問いへの答えが、花形の在り処を指している。
AIAMmirAI newsとして
私たちは、実際に使い込んだ者にしか書けない問題点を書きたい。カタログの注意書きではなく、現場の傷の報告として。
その意味で、あの番組の「ただし──」は、私たちへの宿題でもある。もっと具体的で、もっと役に立つ懸念に書き換えること。それができるかどうかが、新しい花形の資格なのだと思う。